大判例

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福岡地方裁判所小倉支部 昭和37年(ワ)767号 判決

原告

長田充弘

右訴訟代理人

山口伊左衛門

被告

北九州市

右代者者市長

吉田法晴

右訴訟代理人

大和虎雄

主文

被告は、原告に対し、二五万円を支払わなければならない。原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は、これを二分し、その一を被告、その一を原告の負担とする。

この判決は、原告勝訴部分に限り、原告において、八万円の担保を立てることを条件に、仮に執行することができる。

事実

原告代理人は、「被告は原告に対し六〇万円とこれに対する昭和三五年三月一日より同年四月三〇日まで年一割八分、同年五月一日より完済まで日歩九銭八厘の割合による金員を支払わなければならない。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、請求原因を次の通り述べた。

「一、原告は、昭和三五年一月一五、六日ごろ、桑嶋雄正より、中尾登美に対して、その所有する北九州市小倉区堺町四九番地の一宅地四六坪二合一勺及び同所所在家屋番号堺町七四番住家木造瓦葺平家建居宅一棟建坪三〇坪七合八勺(本件物件と略す)に抵当権を設定するから六〇万円貸して欲しいとの申込を受けて、これを承諾し、同月二五日右不動産上に抵当権設定登記を経由した上、前記中尾登美に六〇万円を、同年四月三〇日返還を受ける約束で交付した。

二、ところが、同人は右の弁済期が過ぎても右の金員を返還せず、しかも前記中尾登美は、実は山元竹子であつて、原告はその後真実の中尾登美から債務不存在確認抵当権設定登記抹消登記手続を求める訴を当裁判所に提起され、同三七年九月二八日敗訴の判決を受け、その後右判決は昭和三八年二月一九日原告の控訴取下によつて確定し、原告は、右貸付金の回収ができなくなつた。

三、原告が前記中尾登美と称する山元竹子に六〇万円を交付したのは次の通りの事情による。

桑嶋雄正、富田武雄は、堀川宗朝と通謀の上、山元竹子を中尾登美に仕立て、昭和三五年一月二二日当時の小倉市役所に出頭し、中尾登美の印鑑に似た「中尾」と刻した偽造の印鑑を用いて同市住民登録係吏員佐竹義雄に印鑑証明書の交付申請をなして、中尾登美名義の印鑑証明書の交付を受け、同三五年一月二五日富田武雄、中尾登美に仕立てられた山元竹子は原告と共に大石代書人の事務所に赴き、本件物件の抵当権設定登記手続に必要な書類の作成を依頼し、翌二六日抵当権設定登記手続を完了の上、右関係書類を原告に交付した。

ついで、原告、富田武雄、山元竹子、北九州市八幡区中央区の中野虎雄公証役場に同伴し、本件印鑑証明書を提出の上、貸金六〇万円、弁済期昭和三五年四月三〇日、利息は利息制限法による最高利息、毎月末日その月分を支払う、期限後の遅延損害金日歩九銭八厘なる内容の第四四九号金銭消費貸借契約公正証書の作成を完了し、連れ立つて原告方に戻り、原告は、桑嶋雄正、富田武雄同席の上、山元竹子に現金六〇万円を交付した。

四、原告が山元竹子に右金員を交付したのは、本件物件が中尾登美の所有であると信じ抵当権設定登記手続をなしたためであるが、その根本原因は、佐竹義雄の印鑑証明書の交付にある。

しかして、佐竹義雄の右印鑑証明書の交付には次のような過失がある。

(イ)  既に登録されていた中尾登美の印鑑と印影と、山元竹子が提出した「中尾」と刻した印鑑の印影との同一性についての確認が慎重でなかつたこと。即ち、(1)真正の印鑑の印影の外環の左肩には切れ目があるが、山元竹子提出のそれの外環の左肩には切れ目がない。(2)二つの印影は「中」の字の第二画の右肩の筆勢が異る。(3)二つの印影は「尾」の字の第一画の右肩の筆勢が異る。(4)二つの印影は「尾」の字の第七画の最後のはねと、外環との距離が異り、しかもその差異は相当に大きい。(5)二つの印影は「中」の字の第四画の下端と「尾」の字の第一画との距離が異る。(6)二つの印影が同一のものでないことは肉眼による裁断法によつても発見できる。

(ロ)  印鑑証明書の交付を申請した者が印鑑の登録名義人である中尾登美と同一人物であるか否かについて、慎重な確認の方法をとらなかつたこと。即ち、印鑑証明書の交付を申請する者に対し、本人の本籍、生年月日、家族数、家族の氏名、その生年月日等につき詳細な質問を発し、その答えるところを住民票の記載と対照する等の方法を講じたならば、当然印鑑証明書の交付を申請している者が、中尾登美でないことを発見できた筈である。

五、地方公共団体たる市町村のなす印鑑証明事務は、国家賠償法第一条にいわゆる公権力の行使に当るから、被告は、当時の小倉市の印鑑証明事務に携わつていた佐竹義雄の前記過失に基づく違法行為により原告が蒙つた損害を賠償すべきである。

六、本件印鑑証明書の交付がなければ、原告は前記抵当権設定登記手続をなすことなく、山元竹子に対し、前記貸付を行なうこともなかつたのであるから、原告は、第二項記載のごとく回収不能になつた貸付元金六〇万円及びこれに対する昭和三五年三月一日以降同年四月末日まで年一割八分(同年一月分及び二月分の利息は受領)、同年五月一日以降完済まで日歩九銭八厘の割合による金員の損害を蒙つた。

七、よつて、原告は、被告に対し不法行為に基づく損害金として、六〇万円及びこれに対する昭和三五年三月一日以降同年四月三〇日まで年一割八分、同年五月一日以降完済まで日歩九銭八厘の割合による金員の支払を求める。」

被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、次のように答えた。

「原告の主張する請求原因事実中、原告が現実に授受した金額ならびに契約内容の点を除き中尾登美と称する山元竹子に六〇万円を貸与したこと、その主張する日に中尾登美と称する山元竹子の申請により当時の小倉市住民登録係吏員佐竹義雄が中尾登美の印鑑証明書を交付したこと、右印鑑証明書に基づき本件物件上に抵当権設定登記をなしたこと、原告がその後中尾登美より債務不在確認抵当権設定登記抹消登記手続を求める訴を当裁判所に提起され、原告敗訴の判決を受け、その後右判決は確定したことは認めるが、佐竹義雄に過失があつたとの事実は否認する。原告が蒙つたと主張する損害の発生及びその金額は争う。その余の点は不知。」

抗弁として、「仮に被告に過失があると認められるときは、原告は、中尾登美と称する者に金員を貸与する以前、桑嶋雄正、富田武雄から同女を紹介されて同女を中尾登美と軽信し、中尾登美の確認につき重大な過失があり、さらに原告が中尾登美から前記訴訟を提起された後の損害防止につき採るべき手段に過怠があり、機宜を失していたために回復される筈の損害の回復を失つているから、本件の発生ならびに損害の拡大につき、原告にも過がある。」と述べた。

原告訴訟代理人は、「右抗弁事実中、原告が中尾登美と称する者に金員を貸与する以前、桑嶋雄正、富田武雄から同女を紹介され、同女を中尾登美と信じていたことを認める。」と述べた。

証拠(省略)

理由

当時の小倉市住民登録係吏員佐竹義雄が、昭和三五年一月二二日同市役所に出頭した中尾登美と称する山元竹子の申請により、中尾登美の印鑑証明書を交付したことは、双方の間に争いがない。

そこで、佐竹義雄に過失があつたかどうか、過失があつたとしたら、原告の蒙つた損害は本件印鑑証明書の交付に基づくものであるかどうかについて判断する。

まず、印鑑証明書の交付を申請するには、どのような手続を必要とするのか、昭和三五年一月二二日当時の小倉市の場合についてみると、成立に争いのない甲第五号証(小倉市印鑑条例)には、第三条第一項に、「印鑑の証明を請はんとする者は自ら本市役所に出頭し附録第二号様式に依る願書を提出すべし。」と規定し、第二項に、「正当の理由に因り願人自ら出頭し能わざるときに成年の代理人をして委任状を以て願書を提出することを得。」第三項に「前項の願出に付必要ありと認めたるときは本人の意思を確めたる後にあらざれば交付せざることあるべし。」と規定している。

思うに、わが国においては、印鑑が殊の外重要視され、その捺印があることによつて文書に表わされた自己の意思を明確にすると共に、その文言に責任を負う旨を表明するものとして、行政庁に提出する文書はもとより、一般の取引関係において用いる文書についても、捺印を要求するならわしとなつていることは周知のとおりである。

さらに、右のように文書に顕出された印影が、市町村役場備付けの印鑑簿に届出てある印鑑と同一であることを証明し、前記捺印の趣旨を一層明確にするために用いるが、印鑑証明書である。

従つて、市町村が印鑑簿に届出のある印鑑につき、印鑑証明書を発行する場合には、これを軽々に取扱うことは許されず、慎重な注意を払つてなさるべきことは理の当然である。

印鑑証明書の交付を申請するには、自ら市役所に出頭してなすことを原則とし、代理人によつてなさざるをえないときには、成年の代理人によることもできるけれども、この場合は本人の委任状を提出することを要し、それでもなお係員において必要ありと認めれば、本人の意思を確めた後でないと、交付しないこともできる旨を定めた前掲小倉市条例も、右の趣旨に則つたものと思料する。

従つて、市町村の係員が印鑑証明書を交付するにあたつては、市町村役場に出頭し証明書の交付の申請をする者が、屈出印鑑の名義人と同一であるかどうか、屈出印鑑と証明を受けようとする印鑑とが同一であるかどうかにつき、周到な注意を払い、右の点を確めた上で印鑑証明書を交付しなければならない。

ひるがえつて、本件につき考えてみるに、<証拠―省略>によると、中尾登美と称し本件印鑑証明書の交付を受けようとして山元竹子が提出した印鑑の印影と、中尾登美の屈出印鑑のそれとは、極めて相似し、肉眼はもとより拡大鏡を用いても、両者の判別が極めて因難であることを認め、右認定に反する証拠はない。

不法行為の成立要件としての過失は、一般人、普通人の注意の程度をもつて基準とする。従つて、より周到な注意を尽せば損害の発生を防止しえたであろう場合でも、一般人、普通人としてなすべき注意を尽している限り、過失があるとはいえない。ただ一般人、普通人ということは、抽象的に一般人という意味ではなく、具体的事例における一般人、普通人のことであるから、その人の職業、事務の内容等が、過失の認定につき考慮されなければならないことは当然である。

佐竹義雄に過失があつたか否かを考えるに当つても、同人が小倉市住民登録係吏員として、日常印鑑、印影の照合に携わり、従つて一般の人より、その識別に特別の知識、経験を有し、かつ要求されていい点を考慮しなければならないとしても、それでもなおかつ、前認定のとおり判別の極めて困難な印影の同一性を看破できなかつた佐竹義雄には過失はない、と認めるのが相当である。

しかしながら、本件印鑑証明書の申請人が、果して屈出名義人の中尾登美と同一人であるか否かの点につき払つた佐竹義雄の注意は十分であつたとはいえず、この点に関し同人は過失があつたことの否めないゆえんは、次に述べるとおりである。

証人佐竹義雄は、印鑑証明書の交付の申請を受けると、申請書の記載に基づき本籍、住所、生年月日を申請人に確め、それと屈出済みの本籍、住所、生年月日を対照し、本人に間違いないと認めれば、印鑑証明書を交付するのが従前の取扱であつたから、本件の場合にも同様の方法によつて印鑑証明書を交付したものと思う旨証言するけれども、成立に争いのない甲第九号証によれば、同人は本件印鑑証明書の申請を受けるや、その申請書の「登美」の右脇に「トミ」と振仮名をつけ、更に本籍地が小倉市大字堺町四九の一と記載されているのが、備付の印鑑簿の本籍と違つていることを指摘し、自ら四九の二と訂正記入した事実を認めることができ右と異る証拠はないから、このことからすると、佐竹義雄の取扱は、一般の利便を計るに急なる余り、本件印鑑証明書の申請人が果して、届出名義人と同一であるか否かの確認に関し、十分の措置を講じていたものとはいい難く、不注意のそしりを免れない。

そして、同人は、当時の小倉市長の補助機関として、印鑑証明事務を取扱つていた者であるから、同市長は、本件印鑑証明書の交付につき過失があつたものといわなければならない。

地方公共団体ため市町村のなす印鑑証明事務は、国家賠償法第一条にいう公権力の行使に当るから、被告は、当時の小倉市長の過失による本件印鑑証明書の交付によつて、原告に損害を与えたとしたならば、これに対して賠償の責任がある。

そこで、本件印鑑証明書の交付と原告の蒙つた損害との関係につき考えする。

印鑑証明書が世上財産取引に極めて重要な作用を営んでいることは、前にも述べたとおりであるから、一たび虚偽の印鑑証明書が交付されると、不動産の取引に関する不正行為の発生は容易となり、このため何らかの被害を生ずるであろうことは想像に難くない。原告が本件印鑑証明書に基づき本件物件に抵当権を設定したこと、現実に授受した金額の点は別として、中尾登美と称する山元竹子に六〇万円を貸付けたこと、その後中尾登美より債務不存在確認抵当権設定登記抹消登記手続を求める訴を受けて、当裁判所において原告が敗訴し、右判決は確定したことは、双方の間に争いがなく、成立に争いのない甲第八号証によると、敗訴したのは本件印鑑証明書が虚偽のものであつたことに基因することが明らかであるから、原告が右貸付金の回収ができなくなつて受けた損害は、本件印鑑証明書の交付と相当の因果関係がある、と解するのが至当である。

進んで、原告の蒙つた損害額につき考察する。

原告は山元竹子に六〇万円を交付したと主張し、成立に争いのない甲第一号証には同趣旨の記載があり、証人山元竹子も同様の供述をし、一方、原告本人は、六〇万円から金利七、九〇〇円位を差引いた金額を交付したと供述するけれども、金融業者の間で世上一般に行なわれているところから考えると、証人富田武雄の証言を措信すべく、右証言によれば、利息、手数料、公正証書作成費用を差引き、五〇万円を少少超えた程度の金額を受取つたことを認めることができ、その他にも右認定を覆す証拠はない。すると、原告が本件印鑑証明書の交付によつて蒙つた損害は確実に認定できる限り五〇万円である。

印鑑証明書が財産取引に屡々利用され、極めて重要な作用をなしていることは、屡次述べたとおりであるが、しかし、原告が中尾登美に仕立てられた山元竹子を中尾登美本人と軽信したことは双方の間に争いなく、原告が富田武雄らから受取つた本件物件の登記簿謄本に基づき本件物件の所在を確めに赴きながら、中尾登美本人に会えず、その真意を確めえなかつたことは原告本人自ら供述するところであるから、原告の右過失が、右五〇万円の損害を蒙るにいたつた原因の一つとなつたことは否定できない。

すると、原告にも、本件発生につき過失があつたものというの外なく、原告の右過失は、本件損害賠償額を定めるにつき、これを斟酌するのが相当であり、これを斟酌すると、被告が原告に賠償すべき金額は二五万円と認めるのが相当である。

よつて、原告の本訴請求は、二五万円の支払を求める限度において、正当としてこれを認容し、その余の部分を棄却し、訴訟費用の負担につき民訴第八九条、第九二条、仮執行の宣言につき同法第一九六条を適用し、主文のように判決する。(田畑常彦)

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